◆高瀬佳子へのメッセージ◆



@高瀬佳子ピアノコンサートを聴きて 〜白木勝規〜(2006/7)







  • 高瀬佳子ピアノコンサートを聴きて 〜白木勝規〜(2006/7)

    のっけから私事で恐縮ですが、私はクラシック音楽の新人を殆ど知りません。暮れになると、レコード屋がドイツグラモフォンの演奏家の写真入カレンダーをくれますが、この中で比較的古株と思われるポリーニですら、そのレコードは我が家になく、ピリスは辛うじて数枚といったところでしょうか。アンネ=ゾフィ・ムターは、グラビアアイドル状態で、もっぱら観賞用ですし、今話題の五嶋龍は、話題ゆえに様子見です。

    では、この偏固な私は、いったい何を聞いているのか、と申しますと、ただもう古い録音ばかり聞いているのです。どれ位偏っているかといえば、70年代、80年代以降の録音盤がCD棚に殆どないことで証されましょう。
    そんな私にとって30年代から60年代頃までのウィーンフィルハーモニーは、やはり最高の団体ですし(現在についてはあえて申しません)、室内楽は、アルバンベルク、ジュリアードなどでは決してなく、コンツェルトハウスかバリリ、アマデウスでも50年代の盤を好みます。これは、恐らく「ウィーン体験」のしからしむる事であると確信しています。

    ではピアノは?ピアニストは?

    私が最も聴くピアニストは、アルフレッド・コルトーです。そして、コルトーから続く、ハスキル、リパッティ、最近の人では毀誉褒貶激しいハイドシェック、この辺りの人々のピアノが最も好きです。いわばコルトーの弟子筋にあたるのですが、単にコルトーの弟子であるという義理で聴くわけではありません。一人一人は実に個性的で、「流派」を感じさせません。しかし、コルトーから受け継いだ、重大な「核」のようなものは、大事に保持しています。
    では、その核とは何か、言い換えればコルトーに私は何を聴いているのでしょうか。

    自分で設定したのに大変な難問ですが、私はコルトーのピアノに、音楽を含めた「豊穣さ」を聴いているような気がします。音楽を耳では聞いていますが、コルトーのピアノに私は「詩」や「絵画」を聴く感がするのです。古い人ですから、テクニックは今の人々に劣ります。古い人ですから、録音もよくありません。しかし、あたかも曇って黒くなってしまった銀器を磨くと美しい地肌が出るように、彼のピアノ、プレイエルはその輝きと豊かな実りの世界を、ノイズの向こうから伝えてくれるのです。加えて、彼のたぎるような熱情も、ブリュンヒルデを包む炎のように彼の芸術を包んでいます。つまり、音の単なる構成物としての音楽ではなく、文化の総体の一部としての音楽を彼の音楽に聞くのです。

    コルトーに対する信仰告白がやや冗長に過ぎました。しかし、私がポリーニを聴かない理由も、アシュケナージを避ける理由もここにあるのです。

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    ―――― さて、話は一気に先日の千里中央に飛びます。

    高瀬さんの楽しいお話を含む演奏会は、一言で言うならば「いい演奏会だった!」ということです。

    理由は以下の3点です。

    まず第一に、小さ目のホールで、極めて暖かい雰囲気の中で開かれた演奏会だったということです。当日のお話の中でも、シューベルトを中心とするサークル、シューベルティアーデのことが触れられましたが、先日の演奏会もそうしたサロン的な、居心地のよいものでした。リラックスして高瀬さんの世界に入り込むことが出来ました。会場の反応もよく、「ライヴ」のよい点が生きていたと思います。

    第二に、高瀬さんのプログラム構成が素晴らしかったことです。「貧しさは名曲を生む?!」という分かりやすいテーマ設定でありますが、紹介された曲目はいわゆるクラシック音楽この200年を概観できるものとなっています。比較的小品が多くなりますが、慎重な選曲の結果、どれも作曲家の体臭が感じられる佳品ばかりでした。例えば、ワーグナーの曲など、少しリスト風ですが、(彼は作曲当時、後にリストが舅になるとは思ってもみなかったでしょうが)やはりワーグナーらしい大胆さも感じられましたし、ベートーベンの曲も構成の仕方、展開の仕方がきっちりベートーベンでした。これは実は大変なことであると思います。特に、シューベルト以降の人々は、有名な曲が大曲に偏りがちなので、その人の個性を比較的小さな曲で表すのは難しいと思われるからです。
    今回は偶々、「貧しさ」をテーマにされておられましたが、実に「貧しさ」が作曲家にとって問題となるのは、宮廷、教会、大貴族といった伝統的な雇用主の勢力減少が理由の一つですから、市民社会成立後の世界史的な問題も包含する内容でありますし、こと音楽に限れば、取り上げられた時代は、ピアノの誕生から発展の時期にもあたり、これまた非常に重要な問題を含むプログラムです。実に深い構成といわざるを得ません。

    第三に、もうこれは申し上げるまでもないかもしれませんが、高瀬さんのピアノの素晴らしかったことです。特に休憩後の後半は、どの曲も素晴らしいものでした。私がとりわけ素晴らしいと感じたのは、ドビュッシーの「喜びの島(L’Isle joyeuse)」です。高瀬さんの「喜びの島」は、明るい日差しの下、くっきりした輪郭で、しかも極彩色で彩られた「島」でした。テンポを余り早く取らず(かといって遅いわけではありませんが)、一つ一つのエピソードを丁寧に演奏されることで、ドビュッシーの凄さを背中がゾクゾクするほど味わうことが出来ました。ドビュッシーの個性は、大胆な和声にあります。大胆といっても、ワーグナーのそれのように不安や憧れといった蒙昧としたものを表すのでありません。西洋音楽の古典的な和声は常に安定を望みますから、そうでないことをあえてすることで不安などのマイナスの感情を作り出すことは、感性より勇気の問題であると思います。私が今回感じたドビュッシーの凄さは、安定を望む和声をどこか外すことによって、爆発的なプラスの感情を表現しているところでした。それはまさに高瀬さんの今回のピアノで感じたことです。決してエキセントリックな点を強調するような演奏ではありません。しかし、実演にこめる集中と、おそらくは事前の周到な準備によって、目の前に七色の不可思議世界がみるみる広がっていくような表現を獲得していたように思います。

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    私は劈頭、コルトーのことを述べました。そして彼の弟子達が、コルトーの核を大事にしながら、それぞれの個性を花咲かせたことも申しました。私は、今、こんな近くにその灯りを持ちつづけている方がいると知り、大きな衝撃を受けました。念のために申しますが、高瀬さんは決してコルトーのピアノではありません。リパッティでも、ハスキルでもありません。高瀬佳子のピアノだと断言できます。しかし、前にも述べた「文化の総体の一部としての音楽」の香りを濃厚に持ち、熱い血の通う音楽を聴かせてくれるという点で、「コルトーの灯り」を強く感じざるを得ませんでした。

    最後に、日本人作曲家、十河陽一の曲を披露されました。

    大変熱のこもった演奏で、私は圧倒されました。「彼方へ」という題の曲でしたが、私は現代の音楽を殆ど聴かないので、「きっと平面上をあっちこっちに行くだけの曲なのだろう」と思っておりました。ところが、この曲は、「彼方へ」行くだけではなく、まず「彼方」からやってきました。そのうち、平面上を「彼方に」行くのではなく、立面上を「彼方に」行き始めました。つまり、ゴシック式建築の教会のように、垂直方向にどんどん構築されていくのです。そのさまは、譬えるならばブルックナーの交響曲をピアノにしたような構築感とでも申しましょうか。そしてその構築物を何事もなかったかのように破壊し、今度は平面上を「彼方に」向かう、というものでした。恐らくこれでは説明にはなっていないと思います。しかし、こう説明するほかありません。ただし、一つ自信を持っていうことができるのは、高瀬さんのピアノによって、この曲に生命が吹き込まれていたという点です。高瀬さんは夫でもある十河氏の最高の解釈者なのではないでしょうか。高瀬さんを得て、初めて十河氏の音楽が生きたものになっているということは、あの時ホールにいた全員が感じたことだと思います。モーツアルトのクラリネットの名曲が、当時の名手シュタードラーを得て作曲されたように、演奏者との「縁」なくては、名曲は生まれません。そうした歴史上の事実を睫前で見ることが出来ただけでも素晴らしいことでした。その上この曲は、私にとって現代音楽に対する臆見の変更を迫るような楽曲でした。

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    私はさほどコンサートに足を運ぶものではありませんが、今回ほど、発見が多く、いろいろな意味でスリリングな経験をしたコンサートは、最近ではありませんでした。 これほど豊かな時間を過ごす事ができたことを、高瀬さんに御礼申し上げなくてはなりません。このコンサートは、私の日常の音楽経験をより豊かなものにするものと確信しています。さらに今回この機会を与えてくださった皆さん、とりわけ、高瀬さんと以前よりご親交のあったギャラリー アート・デ・アートの杉田さんに、深く感謝を申し上げます。(了)

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