ちょっと脱線その@〜ダッハウの収容所(1989年11月1日)〜
ミュンヘンにいる限りやはりここは見ておかなくてはいけないと、こちらで親友になったIと一緒にダッハウの強制収容所を見に行きました。ドイツ人の友達は、日本人であるからにはノイシュヴァンシュタイン城に行かなくては、と冗談を言いますが。(日本人観光客のお決まりコース)
ダッハウというのは不思議な街で、この強制収容所があるところの反対側はまるでおとぎの世界のようにその丘や家々が美しく、対照的な現実を見せられたような気になります。
収容所内に実物として残っていたものは案外少なかったのですが、ここにユダヤ人達が詰め込まれ、この土を踏んで肉体労働させられ、そしてここに死体が山のように積まれていたと思うと、やはり胸にグッとくるものがありました。ビデオ(スライド)もドイツ語と英語版で無料で見ることができるし、資料も何カ国語か用意されていて、さすがにヨーロッパでアウシュビッツに次ぐ有名な場所だということがわかります。
とても人間扱いだと思えない、養鶏所以下のような場所に寝起きし、病気になっても働かされていたその悲惨さ・・・。どこまで酸素の量を少なくすれば人が死ぬかなどの様々な人体実験の様子、毒ガス室、周囲に張り巡らされている電熱線、ヒットラーの演説風景、いろいろな資料を見ましたが、私の心に一番強く刻まれたのは、ぼろ布のように扱われた死体の山でも希望の光を失ったユダヤ人のまなざしでもなく、なんと、ナチスの婦人部隊の大変知的で健康的な様子、そして誇りにあふれた純粋なその顔の美しさなのです!このような恐ろしいことを行った人達はさぞ鬼のような人々と思いたかった私の願いをみごと裏切ったあのパネル写真!!この人達が全てを知ってナチスのために働いていたかどうかはわかりませんが、だからこそ自分を含め誰もがすべてこのような残虐なことに加担することがあるかも知れない、という恐怖。そして心ある人間が、同じ心ある人間に対してここまで残忍な行為ができてしまう、という確かな事実にはただ驚愕に震えるしかありませんでした。
平日だったので、そんなに見学者はいませんでしたが、ドイツ人の小学生らしき団体が先生と一緒に来ていました。多分社会見学みたいなものでしょう。ふと、この子達のおじいさんがこのパネルに写っているかもしれない、という考えが頭をかすめました。自分達の国のそれもほんの少し前の負の歴史をこの子達はいったいどのように捉えていくのだろう・・・。南京大虐殺や侵略行為などをできるだけ隠そうとする日本との大きな違いはどこから来ているのだろう。
ゆっくり見てまわったら、だんだん日が暮れてきてさすがに怖くなってきたので、ドーンと重荷を心に背負ったまま帰途につきました。このショックは相当なもので、しばらく頭のどこかでいつも、人間の良心の限界についてや、煽動されやすい本能、攻撃、破壊の本能、集団の恐ろしさ、無感覚、無関心についてなど、打ち込まれた鉛の玉が鈍くぐるぐる回っているようでした。
私は音楽を学びにここへ来たわけですが、人間の心の闇に音楽はどのように作用するのだろう、もし音楽を一生の生業にするのなら私は人の良心に響いてなにか幸福に導いていけるような音楽を勉強していきたいと、そしてこれが私にとってのすべての原点である、とひそかに決心したのです。<そう、チェリビダッケの音楽に出会うことは私にとって必然だったのです・・・・>
次の日、ガスタイクの図書館にCDを借りに行ったら、展示場でヒトラーを暗殺しようとしたひとりの家具屋のことが特集されていました。この国は常に戦争で犯した罪を追求し、今も深い反省が繰り返されています。しかし、ドイツもここ南のバイエルンあたりではレプブリカーという名のネオナチ系統の党が強くなってきており、今、選挙がとても重要になってきています。この前の選挙もこの党の支持者が結構少なくなかったそうな・・・なぜそのようになってきたか、その理由は、先の戦争で犯した他国に対しての罪を償う意味もあり亡命者や外国人労働者の受け入れをとても広くしたために、現在この国に住む外国人が増えすぎてドイツ人の住居や職が狭められているという考えから、国粋主義が復活してきているという話を聞きました。そしてバイエルン地方は排他的な考え方の人が多いというのも聞いたことがあります(滞在ビザがおりにくいし、住居探しの時に日本人と言っただけでガチャンと電話を切られたこともある)。その上、今は東ドイツの人びとも喜んで多数受け入れており、なにか対策を講じないと失業者などが増え続け大変なことになります。ラジオでは毎日、東ドイツや近隣諸国のデモの負傷者の数などを放送しています。ここヨーロッパは現在、嵐の真っ只中です。